2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けて、様々な施策の中にユニバーサルデザインが盛り込まれ、推進が加速されてきているようです。この流れは大変喜ばしいことですが、一抹の不安もあります。それは、「おもてなし」とユニバーサルデザインとの関係です。
「おもてなし」とユニバーサルデザイン
東京オリンピック・パラリンピックは、「おもてなし」がキーワードです。おもてなしの心で世界中の人々をお迎えし、心地よい体験をしてもらいたいものです。おもてなしを実現するためにはユニバーサルデザインを施すべきことが多くあるでしょう。しかしながら逆にユニバーサルデザインをすることがおもてなしかというと、それには違和感があります。東京オリンピック・パラリンピックに向かって、ユニバーサルデザインがますます広がりを見せていく中、ユニバーサルデザインがおもてなしだと理解され、ユニバーサルデザインの本質が見えなくなってしまうことを危惧しているのです。
大学の授業での議論: ユニバーサルデザインは「おもてなし」?
大学のプロダクトデザインの実習授業の中での議論をご紹介しましょう。私の研究室では、将来のデザイナーにとって不可欠な視点として学生のデザイン提案には必ずユニバーサルデザインを考慮するように指導しています。ある学生がプレゼンテーションで、これまで利用できなかったユーザーにとっても利用を可能にする新たなユニバーサルデザインの製品提案を「おもてなし」というコンセプトで説明したことがありました。提案自体はアクセシビリティの問題解決に取り組んだ優れたものだったのですが、ユニバーサルデザインがおもてなしと言えるのかということが議論になりました。
おもてなしとは、千利休の「四規七則」が原点の一つだそうですが、それは例えば高級旅館のサービスのように相手が求めること(期待)以上のものを提供すること、つまり0(ゼロ)や+(プラス)の現状をさらにレベルの高い+の状況にすることだといえます。一方ユニバーサルデザインは、使えない・利用できないといったアクセシビリティの問題がある-(マイナス)の現状を最低限使用できるよう0にすることだから、ユニバーサルデザインをおもてなしと説明するのはおかしいと言うのです。ユニバーサルデザインは、それまでのデザインが失敗であったためにデザインによって排除されていた人々を、丁寧にそのニーズを考慮することできちんとユーザーとして迎え入れること(→0)であり、それはこれまでの質の悪いデザインを同じデザイナーとして詫びることはしても、ユニバーサルデザインにしたからといって、何か特別な素晴らしい+のことをしたように「おもてなし」と言うのはデザイナーの自画自賛であり、はしたないというわけです。
責任を果たす活動とより深い感動を提供する活動の切り分け
この議論には、ユニバーサルデザインの重要な本質があります。私も、ユニバーサルデザインをおもてなしと位置付けることには問題があると話しました。おもてなしは、十分でなくても危機的な問題ではありませんが、ユニバーサルデザインが実現できずアクセシビリティに不備があるのは致命的な問題です。ユニバーサルデザインに取り組むことは、デザイナーにとっては「ユーザーの権利を保障する」という重い責任を果たすことです。アクセシビリティの問題解決に取り組むことで、ユーザーをモノやサービスの利用から排除せずそこからの便益を得る権利を保障するのです。ユニバーサルデザインという-を0にする責任を果たす活動(=しなければならないこと)と、おもてなしという0を+にする活動(=するのがより良いこと)とは、明確に分けて考える必要があります。
ユニバーサルデザインをおもてなしと捉えてこれら二つが混同されてしまうと、場合によってはより深い感動を提供することだけに注力してアクセシビリティの問題が忘れられることもあるでしょう。デザインの責任から無自覚に免れてしまうわけです。ユニバーサルデザインをおもてなしと理解してしまうことで見えなくなる本質、それは「ユニバーサルデザインとはデザインの責任を果たすことだ」ということです。
クラスの結論:デザインの責任の自覚
デザインクラスの議論の結論は、まずはデザインの責任を果たそう、その上でさらにより感動的な体験を考えようというものでした。重い責任をおもてなしというやさしい言葉に置き換えてしまうことは心地よく、デザイナーとしては楽になれるものですが、未来のデザイナーたちにはきちんとユニバーサルデザインの本質を見ていこうという覚悟があるようでした。