数年前、勤務先の大学の授業で、学生たち(2年生)と交通のユニバーサルデザインについて調査したときのことです。最寄りのJR新倉敷駅は、今では交通バリアフリー法のもと、エレベーターやエスカレーターが整備されていますが、当時は2階のレベルにある改札に行くには階段が唯一の手段でした。学生たちは車椅子、視覚障害、高齢の3つの疑似体験を行いながら駅のユニバーサルデザインの状況を調べました。車椅子に乗った学生たちが階段の下からインタホンで駅員さんに連絡をすると、特別なドアを開けていただき、階段を上らず改札も通らずに直接ホームに行くことができました。また、アイマスクをした学生たちが白杖と点字ブロックを頼りに改札に向かうと、そこでは駅員さんが特別に乗車案内をしてくださいました。
体験直後のディスカッションでは、疑似体験ではいろいろと奮闘して大変だった、この場所にこんなバリアがあった、そして特別なドアや改札など障害者が駅を利用できるように「特別な対応」が考えられているのが良かった、さらに駅員さんが疑似体験の高齢者や障害者にとても親切に対応してくださったのが印象的だった、というようなことが話されました。
しかしながら翌週、教室に戻って改めて行った授業では、様子が違ってきました。それは、「特別なデザイン」の問題に関するもので、ユニバーサルデザインの本質に迫るような議論でした。
車椅子専用ドアからの出入りや、駅員さんに誘導していただいたことは、駅を利用できるという意味では素晴らしいことだったのですが、車椅子に乗ったり高齢者になった学生は、自分がなんだか一方的に助けられる弱い立場になった気がしたと言うのです。普段は何も感じることなく駅を利用している自分なのに、「特別な対応」をされることで突然「弱い人」というレッテルが貼られた気分になったのです。また、「特別な対応」をされていると、何事かとじろじろ見られて周りの視線も気になったようです。
特別扱いされないで済めば、つまり障害を持っても高齢になっても誰もが自分1人で気ままに駅を利用できれば、「弱い人」ではなくなります。議論の結果は、「弱者」というレッテル、心のバリアは、実は特別な扱いを前提としている「特別なデザイン」が生み出しているのではないか、デザインにその責任があるのではないかということでした。
ユニバーサルデザインは、このような「特別なデザイン」(バリアフリーデザイン)を反面教師とし、「特別でなく一般のもの」でアクセスの問題解決をすることを目指して生まれました。障害者専用や高齢者専用などの「特別なデザイン」が、アクセスはできても利用する人に「特別な人」というレッテルを貼ってしまうのに対し、特別仕様でなく「一般のデザイン」が誰にでも利用でき、利用する人を「弱者」にしないことは、人の尊厳として大変重要なことです。ユニバーサルデザインには、このような考え方がその根底にあるのです。